□ 吉田利江 (財団法人鉄の歴史村地域振興事業団 主任研究員)
菅谷たたら
奥出雲吉田には、出雲綿屋(田部家)が鎌倉時代から大正10年まで鉄づくりをしてきました。
数あるたたらの中で、菅谷たたらは宝暦元年(1751)から操業をはじめ、
優れたケラを産み出し、全国に向けて出荷し続けてきました。
田部家ならびにたたら職人や子孫の方々による手厚い管理のおかげで今日も高殿は現存し、
国内唯一の遺跡として近世の製鉄史を考える上で重要な姿を伝えています。
私たちが所属する財団は、菅谷たたら山内を中心とした鉄の文化を、
後世に正しく継承するという目的で設立され、
菅谷たたらをはじめとした町内3つの博物館の管理運営をしています。
昨今は、来館者のニーズの変化から鍛冶などの『体験』をしていただけるように、
“鉄の歴史村ものづくり大学”という講座もスタートしています。
ものづくり体験を指導したり、参加者と交流したりする中で、気づき・学びが数多くあり、
原材料の土や木炭や砂鉄を手にすると、自然の恩恵と先人の英知に感謝せずにはいられません。
ケラは日本刀をはじめとして、刃物をつくる際に欠くことのできない素材ですが、
安芸太田では鋳物や農具などの素材であるズク(銑)を生産し、
中国地方で最大の産地として君臨しました。
「たたら」の縁でお声をかけていただいた今回のワークショップを通して、
まちおこしの中でのたたらの今日的な意義を見出せればと考えています。
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□ 野原建一 (広島県立大学名誉教授)
歴史民俗資料館・水の文化館に寄せて
たたら製鉄は、古代から現代すなわち1940年代まで続き、
現在、島根県奥出雲町横田で日本美術刀剣保存協会(略して日刀保)の委託で1〜2月の厳冬期間、
日立金属(株)の支援により人間国宝である木原明村下のもとで刀原料である鉄の生産がおこなわれている。
これはいまも生きた産業遺産といえる。
ところで広島県安芸太田町では、近世期よりたたら製鉄業が盛んにおこなわれ、地域経済を支えてきた。
その痕跡が高殿(たかとの)や大鍛冶場(おおかじば)などの製鉄遺構や鉄滓(かなくそともいう)という遺物が
町内各地にいまもあちこちにみられ、それらは考古産業遺産として高く評価されてきている。
なかでも安芸太田町の加計には加計家が代々保存している重要文化財ともいえる「鉄山絵巻」がある。
その絵巻物は江戸時代後期に描かれ、たたら製鉄の生産工程が大量に消費する木炭の生産をふくめ、
高殿の炉における生産過程や大鍛冶場での精錬工程が描かれている。
ただ絵巻には原料の砂鉄採取の場面は描かれていない。
それは隣の島根県邑南町(旧瑞穂町・石見町)から山道を経て運ばれてきたからである。
宮崎駿の映画「もののけ姫」には苦労して砂鉄を牛の背で運ぶ様子があらわされている。
砂鉄を精選して採取するとき、その作業を鉄穴流し(かんなながし)という。
そのとき大量の土砂が流され谷間に堆積したり、川底にたまったりする。
谷間に堆積した豊かな土砂が良質の「隠れ田」を形成し、
稲など農作物が豊富に栽培され、農民の生活を潤してくれる。
だからたたら場の近くにできるデルタの堆積は、地域の人々にもたらした「宝物」である。
たたら製鉄業は、経営者にとってかけがえのない収益をもたらすが、
地域の農民にとっては副業をあたえる貧しくも厳しい生活を支えるなにものにもかえがたい産業でもあった。
安芸太田町にはすばらしい自然景観もさりながら、
価値のあるこうした古い産業遺産を地域にたくさん遺した魅力あふれたところである。
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□ 島津邦弘 (元中国新聞記者)
たたら製鉄の技術
中国山地のたたら製鉄は大正時代に終わりました。
しかし、その技術は太田川流域でも受け継がれ、1960年代まで続いていました。
「川・森・文化・交流センター」があるところには帝国製鉄所がありました。
センターの位置に炉があり、3階につながる上段の駐車場は木炭、鉄滓置き場でした。
製炭工場は三段峡の奥にあり、500人前後が働いていて学校もありました。
さらに帝国製鉄加計工場の前身は北広島町大暮の山県製鉄所でした。
ここには今も赤レンガの煙突が残っています。
このように、たたらの技術は50年前まで息づいていたのです。
いま、その技術は安来市の日立金属安来工場が受け継いでいます。
「安来鋼」は世界の特殊鋼として先端技術を担っているのです。
たたら技術は現代につながっているのです。
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□ 大和重工
太田川のそばで生まれた鋳物
たたらとは、足ふみ式の大きなふいご(送風機)のことですが、製鉄作業の現場でさかんに用いられたため、
後に製鉄作業全体もこのように称するようになったといわれています。
たたら製鉄では、中国山地に産する砂鉄と木炭を炉に入れ、天秤ふいごで風を送り、溶解させて鉄を作ります。
この技術により農具や工具、武具などが作られ、生活や文化レベルの向上に大きく貢献したのです。
1831年に創業した当社は、「たたら」の技術を受け継ぎ、
さらに新しい鋳造技術の開発、設備の合理化などを通
じて発展を続けてきました。
今では、産業機械関連機器部門と住宅関連機器部門の2大部門があり、
幅広くさまざまな分野で社会へ貢献しております。
研鑽を忘れない「たたら」の精神は、いまでも大和重工のモノつくりの心として受け継がれています。
本社と工場のある安佐北区可部は太田川の中流であり、
素材のたたら製鉄や燃料の木炭の集積地であり、鋳型に使う川砂が調達できたのが大きな立地要因です。
太田川上流域のたたら製鉄が、自動車・造船・鋳物・針などの産業へと派生していったのは事実であり、
広島のモノつくり産業が発展した大きな要因といえるでしょう。
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□ 佐藤今朝善 (さとう工房)
小諸城大手門の鉄金具
1991年より、真田幸村ゆかりの長野県上田市真田町で「鉄のクラフト工房」を営んでますが、
仕事柄、鉄の歴史には興味がありまして、一昨年は奥出雲一帯の資料館などを見学させていただきました。
2007年に、小諸城大手門(1611年建立)の改修工事がありまして、
金具の補修に関わる仕事に関わった経験で、当時の和鉄の奥深さに驚きました。
日ごろ、僕の工房で使っているのは一般的な金属素材としての鉄ですが、
和鉄には、硬い、錆びないなど、多くの優れた特性があります。
その奥深さを知るにつけ、西中国山地で盛んであった「たたら製鉄」の歴史を知りたいと思っていたところで、
今回の鉄と自然の共生をテーマとしたワークショップに参加できることを嬉しく思います。
小諸城の鉄金具も太田川産だった可能性があるかもですね。
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□ 佐々木正孝 (郷土史研究)
この地にタタラありき (森羅万象パンフより引用)
歴史の落し物というのは、案外見つけやすいところにあるものだ。
水梨の駐車場で車を止め、草地を数歩行くと鉄屑(かなくそ)の山。歩くとザラザラと音がする。
誰がこんなところへこんなものを捨てた?いや捨てたのではなく、これこそがかの有名なタタラ製鉄の跡なのだ。
中国地方では少なくとも3世紀頃から、砂鉄を原料とした製鉄が盛んに行われていたとみられる。
特にこの地方の砂鉄には不純物が少なく、包丁などの材料として引く手あまただったらしい。
旧戸河内町に現在も残る製鉄遺跡は、この水梨を含め36カ所。
一つひとつの場に立ちじっと目を凝らしていると、鉄屑が語りかけるように現れる。
それを追うと遺跡のだいたいのスケールがわかる。
製鉄は、まず砂鉄を集め、さらに炭を起こし熱を加え急激に冷やし、最終的にぶ厚い鉄の板を作る。
その板を商品として大阪などへ運んでいた。
それぞれの工程ごとに場所と人手が必要で、
1カ所のタタラに家族を合わせ500人から600人が寝起きしていたという。
また周辺には良質の炭が絶えずあった。江戸時代をピークに鉄の1大産地になったのもそのため。
結果、多くの製鉄遺跡が残されたというわけだ。
山へ分け入ったら、景色もいいが鉄屑も追ってみよう。
ひょっとするとまだ隠されたタタラの跡を発見できるかもしれない。
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□ 栗栖一正 (安芸太田町役場地域づくり課)
鍛冶屋館と加計商店街のこれから
「古くなったものをしまい込むのではなく、飾ってその価値を見出そう」・・・
そんな発想から生まれたのが、加計の商店街で展開されている街ぐるみ博物館。
街並み全体を博物館に見立て、訪れる人たちに懐かしさを感じてもらえるような空間をめざして、
地域の人たちが様々な工夫をこらしてきた。
なかでも「鍛冶屋館」は、加計本通り商店街の西端近くにあり、
鍛冶屋の道具や秘伝書、それに鍬(クワ)や鉈(ナタ)、こびきなど、
昔ながらの農機具や鉄を使った日用品などが数多く展示された小さな資料館となっている。
鍛冶屋館のすぐ隣には、今では県内でもほとんど見られなくなった昔懐かしい「村の鍛冶屋」さん、
河野鉄工所がある。
鍛冶屋館の展示品のほとんどは、ここで作られたもので、
火力の強い地元産の松炭を使い、トンテンカンと鉄を打ちながら、
地域の風土に合った鎌、鍬などの農機具を中心に製作されてきた。
例えば、平地が多い山県郡東部のマタグワの刃の角度は60度なのに対し、
傾斜地の多い西部の加計という土地柄その角度は45度に作られ、
カマも同様に土地の状況や用途によって柄の長さや刃の形、幅、長さ、角度を変えるなど、
多くの人がその使いやすさに驚く農機具を見事に作り出してきた。
ところが、河野鉄工所では高齢と後継者不足から今年3月に廃業を決意。
この「村の鍛冶屋」廃業のニュースはたちまち町中を駆け巡り、
町や商工会等の関係者にとっても、単なる一事業所の廃業では済まされない、
大きなショックを伴って受けとめられた。
街ぐるみ博物館の象徴ともいえる「鍛冶屋館」も、この河野鉄工所があればこそ活きる施設であり、
なくなればその存在価値を半減させてしまうという危機感から、今、建物の存続や後継者育成について、
関係者により真剣な議論が重ねられている。
是非、素晴らしいニュースを耳にしたい。
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□ 清水正弘 (健康ツーリズム推進委員会代表)
21世紀のツーリズムとは
現代の日本社会ならびに、日本人においての『旅』の概念は、非常に多様化しています。
1960年代を象徴するのが、ロンドン・パリ・ローマといわれる周遊型パッケージ旅行。
1970年代は若者を中心に、長期貧乏旅行が一世を風靡し、
1980年代には年間海外渡航者数1000万人をクリアしました。
1990年代に入り、ようやくエコロジーツーリズムの萌芽をむかえるようになりました。
自然環境へのローインパクトと訪問社会へのソフトな利益還元として、
旅する行為がクローズアップされつつあることは、非常に喜ばしいことと思います。
それでは、このような旅行や観光などの社会的行為は、21世紀にどのように発展、展開をし、
また未来社会へどのような効果、影響を及ぼすのでしょうか。
また『旅』の行為が、未来社会の明るい提言となるには、今後どのような旅の形態であるべきなのでしょうか。
健康ツーリズム推進協議会は、『旅』の本質を多角的な視座より把握、解析し、
新たなる『旅の形態』への模索、創造、さらに実践の場としての人的・自然環境の設定、
プロデュースを活動の基本理念とするコンサルティング研究機関です。
心と体の「健康」という目に見えない人生の満足感、充足感を獲得する「旅」。
ツーリズムは、そのような「一個人の健康状態」さらには「地域社会の健全さ」などを
取り戻すことに寄与できる産業であるべきです。
人間の体も自然の一部であることを再認識し、身近な自然と人間との営み風景を取り戻す・・。
それには、まず先人たちが、どのように自然との折り合いをつけてきたのか、
その知恵と工夫の痕跡を再確認する作業から始めてはどうでしょうか。
故郷の自然と、先人たちの知恵と工夫の痕跡に新たな視線を投げかける「旅」・・・。
それは、現代人が忘れかけている「物語性」を取り戻す行為ではないでしょうか。
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□ 石井誠治 (NPO広島神楽芸術研究所理事)
伝説の八岐大蛇(やまたのおろち)
郷土芸能である『神楽』の演目で全国的に一番知られているのが『八岐大蛇』であり、
古代の中国山地の営みを現代へ伝えるものの一つです。
八岐大蛇の演目がはじまると
高天原(たかまがはら)から出雲の国へ舞い降りてきた須佐之男命(すさのおのみこと)へ、
翁・手名椎(てなづち)が、大蛇の姿・形について語ります。
『大蛇(おろち)と申すは、身一つにして頭(かしら)が八つ、尾が八つ、伏したる丈は、百丈に余り、
背には桧や杉が生い茂り、眼を見れば赤がちの如く光輝きて、腹には何時も血あえただれ・・・』
このセリフを解釈すると
『頭が八つ、尾が八つ』は、
七重八重に果てしなく続く中国山地のことで山々には桧や杉が生い茂る様子を語り、
『血あえただれ』は、
山襞から赤黒い色をした豊かな良質の砂鉄がいつも流れ出ていることを伝えます。
木炭と砂鉄を三日三晩燃やし続けるタタラの炎が夜空を焦がす状態を、
『赤がち(ほおずき)の如く光る眼』に見たのです。
古代の人々は、
世の中の人と自然の営みすべて『森羅万象』八百万(やおよろず)の神々の営みと信じ、
大自然の流れに従い『大自然を時に敬い、時に畏れ』たくましく生きたのです。
山の神・水の神、そして鉄の神、古代の人々の暮らしから創作された『物語』が、
伝説の舞となって現代に届けられているのです。
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□ 秋田和良 (広島市立大学大学院造形計画専攻)
小だたらワークショップ及び和鋼づくりに参加して
私は、広島市立大学大学で鉄造形を行う学生として今回のイベントに参加させていただきました。
鉄の歴史村さんの小たたらに参加するのは今回が二度目でしたが、
今回は取れたケラを加工させていただくことができ、前回とはまったく別の体験に思えました。
ケラをつぶして塊にし、その段階で断面をエッチングしてみると、中心部分に不純物が点在し、
炭素の量も部分によって違う不均質な鉄であることがわかりました。
これを薄い延べ板に延ばし、焼きを入れて割って選別し、
似た性質の破片を固めて徐々に材料として均質なものへ近づけていきます。
今回初めてこの作業を行いましたが、破片一つ一つの中の部分によっても炭素量が異なっていました。
したがって、もっと小さな破片にする必要があったことが経験を経て理解されました。
現代では、均質な鋼材が供給されて社会が成り立っています。
しかし、日本では脈々とこの方法で鉄工芸品が作られてきていた事を思うと不思議に思えます。
土と火と風で砂鉄から鉄の塊を作る体験を通じて、
私は、たたらが盛んに行われていた時代と現代との感覚の違い、価値観の違いに驚きました。
日本に特有の製鉄法であり文化及び思想の結晶であるにもかかわらず、
現代の日常からは徹底して乖離した存在なのです。
私達の技術でありながら、もう忘れてしまった考え方で成り立つ技術。
今回の小たたらでは、安芸太田町のたたらに関する資料を見たり、お話を窺うこともできました。
たたら遺跡が非常に沢山あるにもかかわらず、
この地域にこんな遺産があることが自分自身の周辺であまりに注目されていない事に驚きました。
私は、自分達自身の歴史として、この忘れてしまった部分を発掘し、
体験してその時代と今をつなげたいと思いました。
そして、現代まで継承されている技術や文化として、
たたらやそれを成立させる諸要素を未来への選択肢の一つとして提示できればすばらしいと思います
。
たたらを情報として知っていた私が、本当のたたらと和鉄がどんなものか初めて知った今回のように、
歴史や忘れられたものを知る・気付くということは、
知識を情報として得るということではなく体験すると言うことなのかもしれません。
そうだとするなら、三段峡たたらツーリズムは好奇心ある人たちにとっての修学旅行的な学びの場として、
大変に価値のある試みだと思います。
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□ 加藤貢介 (広島市立大学芸術学研究科 金属造形一年)
鉄の歴史に触れて
私は大学院入学のため、この春、神奈川県から広島に移り住んで来ました。
こちらに来る前、西日本は島根県をはじめ多くの鉄に関する歴史や資料が残されていると聞き、
胸を高鳴らせる想いで4月を迎えました。
しかし、「たたら製鉄」に関しては、もうすでに滅びたものだと思っていました。
そのため、西日本にいたとしても、
実際に自分がそれに携わる事なんてありえない、と考えていたのが本当のところです。
しかし、広島での生活がはじまりたった2ヶ月でたたら製鉄に携わることができたのです。
そのきっかけが「三段峡たたらツーリズム宣言」です。
この度私が参加させて頂いたたたら製鉄は、永代たたらのような大きなものではなく、
耐火煉瓦と送風機で製鉄を行う小さなものでした。
小さなたたらで行う製鉄で取り出せたヒは、両手に乗るような小さなものでした。
しかし、そんな小さなヒでも、
取り出した瞬間は新たな生命が生まれたかのような神秘的な印象を受けました。
その後、6月5日に風炎窯で行われたワークショップでは、
ヒをうち延べ、延べ棒にするという工程までさせて頂きました。
これは予想していた以上に大変な作業でした。
今日ではホームセンターで容易に購入できる鋼材が、
古代の人にとってはどれだけ貴重なものだったのかを身に染みて実感致しました。
今回の三段峡たたらツーリズム宣言で感じた事は、
たたら製鉄とは私のように金属に携わる人間ではない人にとっても大変重要な意味を持つことである、
ということです。
また、たたら製鉄というものが、広島でも広く行われていたという事実も、
しっかりと残さなければならないと感じました。
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□ 林 俊一 (風炎窯・太田川アクティブアーチ代表)
三段峡たたらツーリズム宣言
安芸太田町加計の太田川沿いで陶芸工房を営みながら、クラフトイベントの運営をしておりますが、
工芸品やイベントの価値を、売上や動員だけで計れない現実を肌で感じております。
かつての技の伝承は徒弟制度や世襲制度に支えられていましたが、
現在は学校や体験講座がその入口となっており、保存のための財団などに支えられています。
旅行業においても、価値観の多様化、細分化、高齢化、人口減少などを背景に、
少人数制のマニアックな体験ツアーが主流となってきています。
そうした時代の流れに道びかれ、その先に見えてくるもの・・・
三段峡周辺は、過去に栄えた「たたら製鉄の歴史」があり、今でも変わらぬ「大断層の峡谷美」など、
「人間と自然の共生」が循環しているパワースポットなのです。
素晴らしい宝モノですね。
消えつつある歴史、峡谷のセラピー効果、新たな旅の流れ、近代文明への反省・・・
これらを重ねて見えてくるものが、未来への道標となるのではないでしょうか。
今回の会場である「三段峡・水梨口・聖湖」が、
この地域のニューツーリズムの玄関口となることは間違いありません。
都会暮らしの疲れが自然や美食や温泉で癒されたとしても、
人間関係の痛みは、人との出会い、発見、感動から始まる心の浄化から再生してゆくものであり、
それこそがニューツーリズムの本質なのです。
関係者の創意を「三段峡たたらツーリズム宣言」として発信することで、
その趣旨が各方面に浸透してゆくことを心から願っています。
まとめ
2000年に、旧戸河内町で開催された国民文化祭が「たたら」をテーマとして開催されたが、その後、継続されていないので、
今一度、奥安芸の歴史を再検証し、ワークショップの準備段階から、専門家に関わっていただいた。
たたらの歴史は大きなものであったが、小だたらワークショップから生まれる鉄素材の利用先が、当地では見当たらないし、
予算もないので、行政や教育委員会への提案としておく。
広域的なエコツーリズムとしての方向性を考えてゆくのが無理のない方向であり、近代から現代への産業も含めて考えるべきか?
加計隅屋鉄山絵巻の価値は一級品であり、西中国山地国定公園、三段峡の特別名勝、森林の豊かさも素晴らしいところ。
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