那須の木地師
1 木地師とは
木地師は木地屋とも言い、古くは轆轤(ろくろ)工と言ったが、その他挽物(ひきもの)師、木地挽・轆轤挽等の呼び名がある。一般には山中に住み、原木を伐り、主に轆轤を使って、椀・盆・棗(なつめ)・茶筒・茶托(ちゃたく)・膳・杓子等の木工品を造る職人を指す。旧木地師集落は東北地方から九州にかけて殆んど全国の山村に分布し、約千五百ヶ所に及び、その多くは深山幽谷にある。木地になる素材を容易に入手できるような環境の場所に住んでいたからである。その規模は2、3家族の小集団もあれば、50〜60世帯から成る村里を造る場合もあり様々である。定着化したのはおそらく室町時代末期頃で、それ以前は原木を伐り尽くすと家(というよりむしろ小屋)をたたんで別の土地に移動するといった生活を送っていたようである。移動の範囲は、国境を越えて他国に移住する者もあったが、多くは一生の内に一つの谷の中か、或は峠を越した隣接の谷を移動しており、中には全く移動しない者もあった。木地師達が用いる素材は、トチ・ブナ・ホウ・ケヤキ・クリ・ミズメ等である。これらはほぼ日本各地の標高7、8百m以上の山地に自生するざつ雑木で、建築用材に余り使用されないため比較的自由に伐れる樹種であった。さて、那須の木地師であるが、関連の古文書・記録・伝承の類は皆無であるため不詳である。

2 起源と規模
那須の古老達の談によれば、その起源は江戸時代の末期頃に佐伯郡の水内(みのち)の方から来たらしいとの事である。規模は不明であるが、文政二年(1819年)の『国郡志御用に付下調べ書出帳』―山縣郡戸河内村―に
「重立(おもだち)候産業の一項に木地挽家数千七百九軒の内木地屋二軒惣人数四千六百八十一人の内木地屋二人、右掛り人七人」の記載があり、村内であるが作業地やその期間は不詳である。

3 稼動期間
地域の殆んどを七百五十m以上の山林で囲まれた那須では豊富な木材、特に天然杉に恵まれ昔から樽丸(たるまる)(桶材)及び杉板生産が主な生業であった。明治33年、島根県から移住してきた故石田富次氏から木地及び漆塗りの技術を習い、漆器生産が盛んになった。石田師は島根県那賀郡都地村字尾浜(現江津市)の人で、明治33年単身で那須に移住してきた。時に後述の碑文から推定すると53才と思われる。明治42、3年頃まで木地及び漆塗りの技術を指導した。その後吉和郷の遊井(あぞい)に移り小屋住いで木地をしていたが、老令のため引退、上本郷に居住し死没した。享年は不詳。その人柄は無欲恬淡(てんたん)、極めて粗末な家に独居、自炊し、閑な時は好きな碁に興じていた。腕の立つ名人気質(かたぎ)の職人で指導は厳しかったが篤実であったという。石田師の直弟子は次の五氏である。
故中本善一 木地師 那須在住
故光吉倉次 木地師 松原出身
故岡野十吉 木地師 他県出身
故藤本惣太郎 塗師 那須在住
故島川寛一 塗師 那須在住
孫弟子は次の諸氏で、那須在住ある。
故藤本健一 木地師
故藤本良一 木地、塗師
故藤本仁市 塗師
故岡田茂平 木地師
故岡田七五三一 木地師
故岩本米市 木地師
故岩本弥市 木地師
故藤本保左衛門 塗師
故中本早太郎 木地師
今本幸市 塗師
なお、中本早太郎氏は明治29年生れの88才。故岡田茂平氏と共に叔父の故善一氏(直弟子)に師事し、17才から昭和15、6年頃(45、6才)まで木地師をしていた。今本幸市氏は明治44年生れの72才。直弟子の故藤本惣太郎氏に師事し、昭和初期から9年頃まで塗師をしていた。その後の継承者は次の諸氏である。
故増谷米吉 木地師
故増谷賢吉 塗師
故岩本友助 木地師
(人名は「百年のあゆみ」―戸河内小学校による)
那須の青、壮年男性の殆んどが木地、塗りに従事し、漆器の里として盛況を呈していた。明治から大正にかけては十数人、最盛期の昭和初期から12、3年には約30人いたが、15、6年頃から漸減(ぜんげん)し、18、9年には生産が絶えた。

4 素材及び製品の種類
素材(木地)は栃(とち)だけで他の木は使用しなかった。栃の割れにくく、くるいが無いという特質が好まれたからである。樹令およそ百年以上の大木で木目の良く通ったのを用いた。必要に応じ随時所要量だけ伐り、伐るとすぐに生木で形を造り、10日〜20日くらい陰干しにした。急ぐ時は囲炉裏(いろり)の火棚(煙返し)で干す事もあった。製品の種類は、椀・盆・ハンギリ・皿・膳・食台・仏前のローソク立て・葬儀・報恩講・法事用椀家具一式等である。これらは地拵(ぢこしら)えに手間をかけ堅実にし、漆塗りは1、2回しかしなかったが堅牢で長持ちした。塗りに使う漆は殆んど中国から輸入したものであったが、那須にも少しは植林した漆の木がありそれからも採っていた。椀には吸物椀・菓子椀(お雑煮だけに使用)等があり共に金蒔絵(まきえ)の入ったものもある。蒔絵は那須には技術者が無く和歌山の方へ出したらしい。ハンギリは寿司桶、こね鉢等に使用。大きさは直径約90cm〜60cm、一木(いちぼく)造りで、全工程を轆轤(ろくろ)を使わず刳(く)るだけのもあり、又仕上げに轆轤を使う事もあった。食台は脚付きで脚も木地で挽いた。葬儀、法事用椀家具は黒塗りで、報恩講用は朱塗りを使う場合もある。これらのセットを八重椀(八重物)ともいう。1セットが平・壺・汁椀・親椀の4種から成り、各々に蓋があり8個になるのでこの呼び名がある。那須の地域用として40人前、野為の講中その他にも現存している。

5 販 路
販売方法は行商で、生産者の内主に塗師が製品見本を持って、山口県東部の錦町(広瀬)、鹿野方面、島根県鹿足郡六日市、七日市周辺、島根県美濃郡下(匹見等)、広島県西部 (山県郡、佐伯郡、安佐郡の一円、高田郡の一部)、安芸郡等、遠くは広島県東部方面まで出かけ、訪れた地区の世話で頼母子講(たのもしこう)を作り契約販売をしていた。製品の運搬は主に天秤によった。なお行商に出かけたのは、塗師の藤本仁市、同良一、同保左衛門の3氏である。生産額については資料が残存せず不明である。

6 衰退の原因
昭和12、3年頃迄は隆盛を誇った漆器業も15、6年になると衰退の兆しを見せ始め18、9年頃には廃業のやむなきに至った。その要因は次の4つと考えられる。
1、日華事変、太平洋戦争で主原木の栃の木が乱伐された
2、中国より漆の輸入が途絶え入手が困難になった
3、製作者が戦争のため激減した
4、戦後は安価で見栄えのする化学製品におされた

近年民芸ブームの影響もあって本物の手造りの良さが見直され、伝統ある工芸の消滅を惜しむ那須の人達の要望もあり、現在岩本友助氏が趣味で製作している。岩本氏は明治43年生れの73才。父の故弥市に師事し15、6才から昭和15、6年頃まで木地師をしていたが、57年夏頃から再び製作し始めた。素材は周辺の山から伐採したサルスベリ・ホウ・ボカ等で、椀・玩具の捻独楽(ひねりごま)・ヨーヨー等を造っている。なお那須出身者では、増谷芳五郎氏が町内の槙ヶ原に木工所を持ち製作している。増谷氏は大正14年生れの58才。兄の故米吉氏に師事。本格的に木地師を始めたのは昭和45年頃からで、素材はケヤキ・コエマツ・ミズメ・クロガキ・サクラ・トチ・ホウを用い、煎茶道具、装飾花瓶等を造っている。販路は県内、島根県、山口県等である。明治41年4月、弟子達が石田師に対する敬慕の念から顕彰碑を建てた。石碑は自然石(花崗岩、高さ約0.9m、幅0.4m)で明神浜から採取し、川沿いの道が狭くて大八車が使えず弟子達4人が辛苦して担ぎ昔の横川峠(よこごうだお)を通って那須に下りた。碑の現在地は那須から吉和郷に通じる旧道(現在廃道)沿いにある。碑文は資料によれば次の通りである。
石田富次 当年61才
師者石州那須郡都地村字尾浜人明治三十三年八月那須木地塗業以来進隆盛発達境受弟此恩有年慈集彰其偉徳
(筆者は当時打梨小学校那須分校の教師、菅尾来(又は来斉)、石工は上本郷在住の枡本某である。)

参考資料
『木地師の世界』渡辺久雄著
『深山の芸術家』今村実―中国新聞所載
『百年のあゆみ』戸河内小
本稿については、中本早太郎、増谷芳五郎、中村亀麗、今本幸市、岩本友助各氏のご協力を頂き深謝致します。
(不免 紀久子)

最近の那須集落

石田富次顕彰碑

正装した木地師「智頭町の木地屋」より

八重椀(物)と盆、朱又は黒漆器

木地師の生活(『斐太後風土記』より)

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