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● 鉄物語 グローバル編

● 製鉄の始まり
  地球の物質の32〜40%は「鉄」で出来ており、マントルのコアは鉄90%とニッケルの「合金」。 = 韻鉄

  製鉄の始まりは、紀元前1500〜2000年頃、ヒッタイト(現在のトルコ東部)とされ、
  人間が作り方をどのようにして発見したかについては諸説あり。

  隕石の中の鉄塊を叩いたり、また、山火事や溶岩で露頭の鉄鋼石が赤く焼けたのを見てヒントにしたり。

  中近東メソポタミアから広まった製鉄は、先端素材であったがゆえに、覇権争いと重なりながら、
  西のヨーロッパへ、南のアフリカへ、東のインド、中国へと伝わっていった。

● 日本への伝承
  日本(北九州?)には、弥生時代に稲作と共に朝鮮から伝わったが、
  6世紀頃までは、海路で調達した鉄素材(スクラップ)を再加熱する鍛冶加工が主流であり、
  「野たたら」といわれる簡素な製錬法だった。

  古事記には、583年に百済や新羅から優れた鍛冶工を招聘したとの記載があり、
  その頃には鉄鋼石による製鉄が始まっており、瀬戸内海沿岸にも広がっていた。

  一方、山陰の出雲一帯では、別ルートで砂鉄による製鉄が始まっていた可能性があり、
  大量の鉄剣や青銅器が出土されたりと
、不明な点が多い。

  恐らく、大和政権に迎合されたこともあって、記録が残されていないのではないか。

  神楽のヤマタノオロチ伝説が、当時の鉄の覇権に例えられたり、
  
金屋子のシラサギ伝説が、播磨から出雲への伝承であったりする

● たたら製鉄
  たたらの語源は、タタトル(烈火)、タータラ(熱)、タタール人(騎馬民族)などの説があり、
  インドや中央アジアに源がある。現在では広く和鉄全般を言う。

  中世には、盛んに改良されながら日本各地に広まった。

  江戸後期に最盛期を迎えた時は、
  天秤鞴の発明、地下構造(石垣)の確立、流通の拡大など、高度な発展を遂げた。

  たたら製鉄はケラとズクに大別されるが、太田川流域では主にズク鉄を生産していた。

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  ケラ = 不純物の少ない真砂砂鉄が原料であり、日本刀の原料であり、世界的にも優秀な刃物素材。

  ズク = 不純物(チタン)の多い赤目砂鉄が原料であり、鋳物(鍋釜)、農具、針など、多方面に使われた鉄素材。
  割鉄 = 炉から出た鉄塊を分別し、再加熱し鍛えなおし、均一な棒状にした製品。(大鍛冶)

● 反射炉製鉄
  不均一なたたら製鉄では、大砲などを鋳造するのは無理だった。

  オランダからの技術書を手本に、
  伊豆代官、佐賀、薩摩、水戸、鳥取、萩など、幕藩体制によって進められたのが反射炉であり、
  天井のある窯の熱反射、レンガ煙突、石炭燃焼で高温を求めたが、技術的には停滞した。

  日本では開国の象徴とされるが、ヨーロッパでは過渡期的な製鉄法であった。

● 角炉製鉄
  たたら製鉄は優秀な鉄を産む反面、
  砂鉄の採取、木炭の大量消費、運搬、現場の重労働など非効率な面があった。

  明治の産業革命によって輸入鉄が増加し始めると一気に斜陽してゆくが、
  一方で、国内での西洋高炉の操業も順風ではなかった。

  過渡期の折衷として、
  留学した技師の指導で、西洋技術をたたら製鉄に転用したのが角炉であり、
  備北に官営広島鉄山が設置された。

  レンガ煙突、水車による送風、動力ハンマーなどが導入されたが、
  砂鉄や鉄滓を使い、木炭を燃料としたので、作られた鉄は和鉄の特性を保持していた。

  出雲や伯耆では、玉鋼の貴重性や戦争特需で、国策として和鉄を保護したため存続し、
  現在もヤスキハガネ(特殊鋼)として受け継がれている。

● 高炉製鉄
  日本初の高炉製鉄は幕末期、釜石が最初であり、橋野高炉跡が現存、
  のち官営八幡製鉄所が本格稼動すると、北九州が日本の産業革命の中心地となった。


  一時は公害問題もあったが、排気や排水の循環システムが確立され無公害となり、
  海岸コンビナートの巨大な溶鉱炉が、現在の製鉄所のイメージとなっている。

  高炉は現在の製鉄の主流であり、原料の鉄鋼石や石炭(コークス)はオーストラリアやブラジルから輸入し、
  日本全体で年間に約1億トン生産され、世界2位の生産国であり、モノツクリ立国を支えている。

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  砂鉄+木炭=和鉄  鉄鋼石+コークス=洋鉄

● スラグ
  スラグ=ノロ=カナクソとは、製鉄の際に精製される不純物であり、
  言い方をかえると、効率的に排出することが良質な鉄を作る要といっても過言ではない。

  高炉の場合、石灰との反応によって分離し、アスファルトやセメントの骨材として再利用され、
  昨今は、海底に溜まるヘドロの浄化作用にも着目されている。

  たたら製鉄の場合、操業のつど炉を作り変えるが、炉材のマサ土との反応がその役目を果たし、
  取り出した不純物はカナクソと呼ばれ、たたら場の周辺に大量に廃棄されていた。

  カナクソには多くの鉄分が残留していたため、角炉で再利用された経緯があり、
  現在でも、山中や河原で発見できる場所がある。

● 森と鉄と海
  森と海はつながり、森から流れ出た栄養分がプランクトンを生成させており、
  新たに、微量な鉄分が光合成を活発化させることが発見された。

  世界的に見ても、豊かな漁場の背後には豊かな森と鉄が存在している。



● 鉄物語 安芸編

● 広島の製鉄
  太田川上流域の遅越遺跡(弥生後期)から、鉄剣が出土するも産地は不明。

  弥生後期から古墳時代にかけての、
  小丸遺跡(三原)、京野遺跡(千代田)、カナクロ谷遺跡(世羅)、戸の丸山遺跡(庄原)は最古級の遺跡であり、
  おそらく鉄鉱石が使われ、朝鮮系の渡来人による製鉄跡と思われる。


  この頃は、備後(福山)、備中(岡山)のほうが、先進的な製鉄地帯であった。

  鎌倉時代の厳島神社の記録では、荘園であった三角野村(豊平)から鉄が納められた記録があり、
  戦国武将の吉川氏がこの地を本拠地にしたのも、鉄の覇権であった。

  太田川上流域(豊平・芸北)では、中世の炉跡が多く発見されており、
  すでに地下構造に工夫がみられ、レイアウトに規則性があり、近世たたらの原型が生まれていた。


● 加計隅屋
  鎌倉幕府が滅亡のち、
  隠岐から、佐々木富貴丸五郎が加計に土着し、寺尾銀山を開発したのが加計隅屋の始まりで、
  江戸時代の初期にたたら製鉄を始め、江戸時代末期には、日本で最大級の鉄山師に成長した。

  民営でありながら、広島藩の強い影響下での経営であった。

  たたら製鉄が最盛期であった江戸後期において、日本で最大手の鉄山師であり、
  加計(安芸)を本拠地として、芸北一帯を統率する大庄屋となった。

  江戸初期、広島藩は太田川下流の氾濫防止のために砂鉄採取を禁止したが、
  加計隅屋は、藩境を越えて、石見一帯から馬で砂鉄を運んだ。

  割鉄は、加計から太田川を川舟で下り、
  さらに、広島から瀬戸内を渡り、さらに大坂の鉄座から全国に向けて山県割ブランドとして流通した。

  たたら場や鍛冶場は、木炭が枯渇すれば移動し、植林や色木など森林共生にも取組み、
  当時から、グローバルな企業経営がされていたのは特筆される。

  鉄価の暴落や、良質な砂鉄の枯渇もあり、明治12年に鉄山業から完全撤退したが、
  鉄山絵巻、吉水園、文学など、文化面での功績は大きく、のちの情報公開も先進的であった。

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  ※18世紀後半(江戸末期)に最盛期を迎えた加計隅屋のデータ

  1回の操業時間 = 3昼夜の連続操業、築炉1日、 年間80回操業、
  1回の消費量 = 砂鉄14〜15トン、大炭14〜15トン、森林消費1.5ヘクタール、
  1回の生産量 = 大鍛冶にて、鋼・ズクに分別し製錬のち4.2トン、
  1年間生産量 = 375トン、当時の出雲御三家と同等か?
  1回の出荷額 = 現代の貨幣にして2億円あたりか?
  専業従事者 = 約300〜400人、砂鉄採取や炭焼きや運搬を含めると2000人規模、

  中国山地一帯では数万人規模の大産業であった。
  中国山地一帯の年間生産量9250トン(全国シェア90%) うち広島が50%の時もある。

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  19世紀始めの加計隅屋の規模(広島県史より)

  山林60ヶ所、たたら場2ヶ所、鍛冶屋10カ所以上、
  広島・大阪に出店各1ヶ所、大阪通船2艘、川舟18艘、土蔵36ヶ所、牛48頭、馬487頭

● 広島デルタ
  中世のころ、太田川上流では「かんな流し」が盛んだった。

  
土中に含まれる微量(3%)の砂鉄を採取するために、山を崩し、大量の土砂を流したので、
  斜面には棚田、河口にはデルタが形成された。
(島根の出雲平野や弓ヶ浜も同じ理由)

  戦国時代が終わり、1589年毛利輝元が広島城を建てたのが広島の始まりだが、
  遠浅で軟弱なデルタ地盤のため、その後も10年がかりの難工事だった。

  毎年のように太田川が氾濫するので、1628年に上流の「かんな流し」を禁止し、
  堰などの治水工事を始めたが、その後も広島と洪水の因縁は続いた。

  広島にとって太田川は母であり、厳しい父でもあった。

● 太田川の川舟
  運搬の主流が牛馬の時代、川はローコストで安全な物流の大動脈であり、
  たたら製鉄にとっても、その権利を握ることが繁栄の大きな鍵であった。

  加計隅屋が、芸北一帯や石見や津和野の鉄を集約できた理由でもある。

  太田川の川舟に藩が介入して株組織ができたので1658年、
  加計と可部が大きな集積地であり、支流が交わるところでもあった。

  加計の積出し港は、丁川(月ヶ瀬公園側)であり、
  早朝の出港、夕刻に広島着、帰りは二日がかりで船を引いて加計に帰った。

  鉄以外に、紙、麻、炭、木などを運んだ。

● 安芸十り
  江戸時代からの鋳物や針は、太田川流域のたたら製鉄が関与しているが、
  そこから派生したDNAが地場産業に広がって行った。

  @ヤスリAイカリBハリCクサリDキリEモリFツリバリGカミソリHノコギリIヤリ

  広島は、古くから鉄に由来するモノツクリが盛んで「安芸十り(てんり)」といわれる。

● 呉海軍工廠
  産業革命のち、日清日露と戦争が続き、激動の時代を耐えたのも、モノツクリDNAあればこそ。

  呉が軍事工場の拠点に選ばれたのも、背面を山に囲まれた要塞のような地形もさることながら、
  地場の鉄産業、従事する人の気質、教育者の存在が大きい。

  当時、太田川流域のたたら鉄は消滅していたが、
  国策として、出雲や伯耆のたたら製鉄や、輸入鉄、国産高炉鉄が大量に使われ、
  他にも、電気機械、レンズなど、最先端技術が集積し、多くの軍艦や航空機が作られた。

  やがて、戦艦大和が沈没し、広島長崎に原爆が投下され、終戦を迎えた。

  言い換えると、戦争にモノツクリDNAが深く関与し、一方で、戦後の復興を支えたのもそれであり、
  現在でも、製造業、造船業、車産業が広島の経済を支えている。

● 山県製鉄
  太田川水系の角炉は、山県製鉄(芸北大暮)〜帝国製鉄(加計)があり、
  西洋高炉のローラー部品やベアリングの材料などを作り、昭和33年まで操業した。

  放棄されていたカナクソが再利用され、燃料の木炭は恐羅漢北側の原生林であった。

● 広島の地域性
  いわゆる農業地帯ではない。

  移動民のたたら製鉄に、多くの農民が副業として依存していたので、
  たたら製鉄の斜陽によって筑豊炭鉱に移った人も多く、
狭い土地に労働力が余剰していた。

  家長意識も薄く、海外への移民も多く、
  懐の広い浄土真宗に信心深いのは、不安定な暮らしの表れかもしれない。

  広島が築城以来の新開地であり、外からの職人や商人の流入が多く、
  洪水も多く、土地に執着できないこともあり、裏表のない自由闊達な風土が生まれた。

  古くから職人の多いところで、安芸十りに加え、筆、カモジ、そろばん、漆器、仏壇などきりなく、
  職人気質的な企業が多いのも広島の地域性といえる。

● 森林共生
  たたら製鉄は大量の木炭を消費したが、森林共生的な努力もあった。

  意図的に残した色木、30年計画の植林、信仰としての神木、
  森林から発生する酸素を含めると、循環エネルギーが確立していた。

  諸外国では、乱伐で森林資源を枯渇させた事例が多い。

  昨今の環境問題の深刻化もあり、企業CSRとして森林保全に取り組む事例が増えている。
  「マツダの森」「ひろぎんの里山」など

  「三段峡たたらの森」では、
  たたらの歴史的な意義、生物多様性の保全、持続的な森林管理を調査したうえで、フォレストック認定がされた。


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