● 鉄物語 安芸編
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● 広島の製鉄 |
太田川上流域の遅越遺跡(弥生後期)から、鉄剣が出土するも産地は不明。
弥生後期から古墳時代にかけての、
小丸遺跡(三原)、京野遺跡(千代田)、カナクロ谷遺跡(世羅)、戸の丸山遺跡(庄原)は最古級の遺跡であり、
おそらく鉄鉱石が使われ、朝鮮系の渡来人による製鉄跡と思われる。
この頃は、備後(福山)、備中(岡山)のほうが、先進的な製鉄地帯であった。
鎌倉時代の厳島神社の記録では、荘園であった三角野村(豊平)から鉄が納められた記録があり、
戦国武将の吉川氏がこの地を本拠地にしたのも、鉄の覇権であった。
太田川上流域(豊平・芸北)では、中世の炉跡が多く発見されており、
すでに地下構造に工夫がみられ、レイアウトに規則性があり、近世たたらの原型が生まれていた。
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| ● 加計隅屋 |
鎌倉幕府が滅亡のち、
隠岐から、佐々木富貴丸五郎が加計に土着し、寺尾銀山を開発したのが加計隅屋の始まりで、
江戸時代の初期にたたら製鉄を始め、江戸時代末期には、日本で最大級の鉄山師に成長した。
民営でありながら、広島藩の強い影響下での経営であった。
たたら製鉄が最盛期であった江戸後期において、日本で最大手の鉄山師であり、
加計(安芸)を本拠地として、芸北一帯を統率する大庄屋となった。
江戸初期、広島藩は太田川下流の氾濫防止のために砂鉄採取を禁止したが、
加計隅屋は、藩境を越えて、石見一帯から馬で砂鉄を運んだ。
割鉄は、加計から太田川を川舟で下り、
さらに、広島から瀬戸内を渡り、さらに大坂の鉄座から全国に向けて山県割ブランドとして流通した。
たたら場や鍛冶場は、木炭が枯渇すれば移動し、植林や色木など森林共生にも取組み、
当時から、グローバルな企業経営がされていたのは特筆される。
鉄価の暴落や、良質な砂鉄の枯渇もあり、明治12年に鉄山業から完全撤退したが、
鉄山絵巻、吉水園、文学など、文化面での功績は大きく、のちの情報公開も先進的であった。
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※18世紀後半(江戸末期)に最盛期を迎えた加計隅屋のデータ
1回の操業時間 = 3昼夜の連続操業、築炉1日、 年間80回操業、
1回の消費量 = 砂鉄14〜15トン、大炭14〜15トン、森林消費1.5ヘクタール、
1回の生産量 = 大鍛冶にて、鋼・ズクに分別し製錬のち4.2トン、
1年間生産量 = 375トン、当時の出雲御三家と同等か?
1回の出荷額 = 現代の貨幣にして2億円あたりか?
専業従事者 = 約300〜400人、砂鉄採取や炭焼きや運搬を含めると2000人規模、
中国山地一帯では数万人規模の大産業であった。
中国山地一帯の年間生産量9250トン(全国シェア90%) うち広島が50%の時もある。
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19世紀始めの加計隅屋の規模(広島県史より)
山林60ヶ所、たたら場2ヶ所、鍛冶屋10カ所以上、
広島・大阪に出店各1ヶ所、大阪通船2艘、川舟18艘、土蔵36ヶ所、牛48頭、馬487頭
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| ● 広島デルタ |
中世のころ、太田川上流では「かんな流し」が盛んだった。
土中に含まれる微量(3%)の砂鉄を採取するために、山を崩し、大量の土砂を流したので、
斜面には棚田、河口にはデルタが形成された。(島根の出雲平野や弓ヶ浜も同じ理由)
戦国時代が終わり、1589年毛利輝元が広島城を建てたのが広島の始まりだが、
遠浅で軟弱なデルタ地盤のため、その後も10年がかりの難工事だった。
毎年のように太田川が氾濫するので、1628年に上流の「かんな流し」を禁止し、
堰などの治水工事を始めたが、その後も広島と洪水の因縁は続いた。
広島にとって太田川は母であり、厳しい父でもあった。
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| ● 太田川の川舟 |
運搬の主流が牛馬の時代、川はローコストで安全な物流の大動脈であり、
たたら製鉄にとっても、その権利を握ることが繁栄の大きな鍵であった。
加計隅屋が、芸北一帯や石見や津和野の鉄を集約できた理由でもある。
太田川の川舟に藩が介入して株組織ができたので1658年、
加計と可部が大きな集積地であり、支流が交わるところでもあった。
加計の積出し港は、丁川(月ヶ瀬公園側)であり、
早朝の出港、夕刻に広島着、帰りは二日がかりで船を引いて加計に帰った。
鉄以外に、紙、麻、炭、木などを運んだ。
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| ● 安芸十り |
江戸時代からの鋳物や針は、太田川流域のたたら製鉄が関与しているが、
そこから派生したDNAが地場産業に広がって行った。
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広島は、古くから鉄に由来するモノツクリが盛んで「安芸十り(てんり)」といわれる。
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| ● 呉海軍工廠 |
産業革命のち、日清日露と戦争が続き、激動の時代を耐えたのも、モノツクリDNAあればこそ。
呉が軍事工場の拠点に選ばれたのも、背面を山に囲まれた要塞のような地形もさることながら、
地場の鉄産業、従事する人の気質、教育者の存在が大きい。
当時、太田川流域のたたら鉄は消滅していたが、
国策として、出雲や伯耆のたたら製鉄や、輸入鉄、国産高炉鉄が大量に使われ、
他にも、電気機械、レンズなど、最先端技術が集積し、多くの軍艦や航空機が作られた。
やがて、戦艦大和が沈没し、広島長崎に原爆が投下され、終戦を迎えた。
言い換えると、戦争にモノツクリDNAが深く関与し、一方で、戦後の復興を支えたのもそれであり、
現在でも、製造業、造船業、車産業が広島の経済を支えている。
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| ● 山県製鉄 |
太田川水系の角炉は、山県製鉄(芸北大暮)〜帝国製鉄(加計)があり、
西洋高炉のローラー部品やベアリングの材料などを作り、昭和33年まで操業した。
放棄されていたカナクソが再利用され、燃料の木炭は恐羅漢北側の原生林であった。
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| ● 広島の地域性 |
いわゆる農業地帯ではない。
移動民のたたら製鉄に、多くの農民が副業として依存していたので、
たたら製鉄の斜陽によって筑豊炭鉱に移った人も多く、狭い土地に労働力が余剰していた。
家長意識も薄く、海外への移民も多く、
懐の広い浄土真宗に信心深いのは、不安定な暮らしの表れかもしれない。
広島が築城以来の新開地であり、外からの職人や商人の流入が多く、
洪水も多く、土地に執着できないこともあり、裏表のない自由闊達な風土が生まれた。
古くから職人の多いところで、安芸十りに加え、筆、カモジ、そろばん、漆器、仏壇などきりなく、
職人気質的な企業が多いのも広島の地域性といえる。
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| ● 森林共生 |
たたら製鉄は大量の木炭を消費したが、森林共生的な努力もあった。
意図的に残した色木、30年計画の植林、信仰としての神木、
森林から発生する酸素を含めると、循環エネルギーが確立していた。
諸外国では、乱伐で森林資源を枯渇させた事例が多い。
昨今の環境問題の深刻化もあり、企業CSRとして森林保全に取り組む事例が増えている。
「マツダの森」「ひろぎんの里山」など
「三段峡たたらの森」では、
たたらの歴史的な意義、生物多様性の保全、持続的な森林管理を調査したうえで、フォレストック認定がされた。
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